関興寺の味噌なめたか

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 古来、禅院の生活は枯淡であり
食事も質素で味噌は禅院の生活に欠かせないとあって
寺では修行僧が自ら沢山の味噌を作り貯えていました。

 天正6年(1578年)上杉謙信の没後、
景勝・景虎二子による家督相続争いの合戦(御館の乱)がおこり
景勝公に縁の深かった関興寺は
景虎方の小田原北条軍に包囲され、
逃げ込んだ兵を引き渡すように命じられましたが
時の住職・雨天是鑑和尚は

「日頃より外護を受けている上杉家を裏切る真似は出来ない」

と要求を跳ねのけました。
その為小田原北条軍に火をかけられ、焼き討ちにあってしまったのです。
総門・三門・仏殿・法堂・方丈・禅堂・塔頭7ヶ寺に及ぶ大伽藍は、ことごとく焼失してしまいましたが
その戦火の折、雨天是鑑和尚は上杉氏より寄進された大般若経典六百巻を
味噌桶の中に埋めるように修行僧に命じて、火災から大切な経典を守りました。

 すると近在の人々の間で

「関興寺の味噌は大切な経典を守った有難い味噌
ましてやその味噌の中に600巻もの経典が埋められたならば
さぞかし関興寺の味噌には経典のご利益・功徳があるに違いない」
とその味噌を分けて下さいと関興寺に参拝する者があとを絶ちませんでした。

以来、「人々の間でこの味噌をいただくものは
大般若経典のご利益にあずかり福徳が授かることができる」
と世の人々に言いはやされるようになり

「関興寺に参拝したならば、お味噌を頂かなければ何のためにお参りしたか甲斐がない」

「関興寺にお参りして有難い味噌を頂きましたか?」の問いかけの言葉として

「関興寺の味噌なめたか」

の言葉が後世の人々に言い伝えられるようになりました。