歴史


関東管領上杉家・上田長尾家   ゆかりの禅寺

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大本山円覚寺百観音霊場第五十一番札所

魚沼観音霊場第二十一番札所


歴当山は最上山関興寺といい、
宗旨は臨済宗(禅宗)で鎌倉の円覚寺派に属す。本尊は釈迦牟尼佛。

開創は応永17年(1410年)で覚翁祖伝和尚が開基す。
覚翁は上杉憲顕の子。駿河に生まれ、諸方を歴参後、
白崖宝生和尚に参じて嗣法、上山の地に一宇を建て、
白崖和尚を請じて開山とし自らその次位となる。
以来関東管領上杉家菩提寺として法灯は栄え、
 二世不蔵和尚の頃上田長尾氏、鎌倉公方足利持氏の帰依厚く、
永享8年(1436年)寺領永楽百二十貫文並びに、
境内山林一里余りの御朱印地を給せらる。
三世在天和尚に至り長尾房景及び上杉房定伽藍を修築し、
幾多の寄進を受け、法道もまた興隆する。
永正9年(1512年)兵火のため諸堂焼失、
翌10年長尾房長僧堂を建立、
天正6年(1578年)上杉氏家督相続争乱(御館の乱)により一山焼土と化す。

 天正14年(1586年)上杉景勝諸堂再建旧に復したが、
文禄3年(1594年)祝融の災に遇う。寺運次第に衰退して振わず、
慶長5年(1600年)上杉景勝米沢に移封されるや、
第三十二世東岩和尚これに従い米沢に新たに関興庵を建立した。

 寛永6年(1629年)4度目の火災により、寺門の衰退はその極に達した。
寛文年中に米沢の地より現在地(南魚沼市上野)に寺を再興し、
万源和尚(米沢藩主上杉定勝公指南、のちの建長寺185世住持)をむかえ、
末寺嘉祥庵を改め関興寺となした。

 その後漸く寺運回復し、徳川幕府より十萬石格別格本山としての格式を受け繁栄、
修行僧は三百人を超え甲信越における臨済宗の一大禅道場としてその名を広めた。
近年では、第五十四世毒狼窟古川堯道老師は円覚寺派管長、
第五十六世雲関窟釋大眉老師は国泰寺派管長にそれぞれ就任されている。