「方丈」
江戸時代安永年間の建立で、約230年ほど前に建設された建築物である。本尊は釈迦牟尼仏。間口13間・奥行8間の入母屋造り、104坪・208畳の広さがあり、近在でその規模のものは重要文化財である雲洞庵の本堂ぐらいしかない。本堂内部は、廊下・敷居・長押など総漆塗りとなっており、そのことからも別格10万石の格式をうかがうことができる。鏡廊下と埋め木細工廊下は漆が塗り重ねてあるため「鏡」のようであることから「鏡廊下」と呼ばれていて、用材である欅の節を埋め木細工(将棋の駒・扇・鏡・瓢箪・木の葉など)した場所が20ヶ所以上あり、大工職人の技術の高さと粋が感じられる。
「大名の間」
書院造りで他の部屋より床を高くした座敷。(現在は便宜上通常の高さに改修している。)
明治以前は殿様や公家など賓客を迎えるための場所であったが、やがて装飾的な場所となり、
床の間よりなお上位の場所として設けられている。(現在は一般に公開されている。)
奥の畳の間は「武者隠しの間」と言われ、近習が控えていた。
「毒狼窟」(どくろうくつ)と書かれた額は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧、
白隠 慧鶴(はくいんえかく)による書である。
狼は雲水(修行僧)、窟は関興寺、毒は雲水の
厳しい修行の様子を表した書とされ、力強い筆跡から白隠の禅の境地が実に良く伝わってくる。
「千手観音」
観音菩薩が千の手を得た姿とされ、千本の手はどのような衆生をも漏らさず救済しようとする、
観音と慈悲と力の広大さを表している。
坐像、立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂と
するものが一般的である。
右手に持つ錫杖(しゃくじょう)や左手に持つ宝戟(ほうげき)などの千手観音の持物(じもつ)に
ついては、「千手千眼陀羅尼経」などの経典に説かれている。
以前、この千手観音は、法堂(はっとう・関興寺の住持が説法をする御堂)の須弥壇(しゅみだん)に祀られていた。
「屋久杉の戸板」
上段の間の欄間と同じく、屋久島の屋久杉で作られた戸板。
樹齢千年以上の屋久杉を一枚板にし、虎・鶏などが描かれている。
江戸時代安永年間の作と見られ二〇〇年以上経った
現在でも色褪せずに見事に残っている。
この戸板は元々「武者隠しの間」の隠し通路前にあり戸板を開けると、殿様の逃げ道となる仕組みとなっていた。
虎の絵は豹柄耳無しと特徴のある作風で、
江戸時代では、牝の虎は豹柄であるとされていたため、
体の模様は豹柄となっている。
「10万石の籠」
十万石の駕籠と徳川幕府の御朱印
住職の使用した駕籠。
関興寺が、徳川幕府から10万石の格式(方丈に「徳川幕府の御朱印」が展示してある)を
拝受したことからそのように呼ばれている。
寛政年間に造られた200年以上前のもの。総漆塗りで、さらに朱塗りであるところが特徴的であり
駕籠の中央には関興寺の寺紋である「五七の桐」がついているため、 関興寺の住持の駕籠であると一目瞭然であった。身分制度の厳しい当時、<br>
10万石に満たない大名は参勤交代の折、関興寺の駕籠に道を譲ったと伝えられている。